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吉の家ならではの商い①

  • 2017/02/07(火) 15:48:37

数週間前のある日の夕方。

この日お座敷のある料亭に行かれた、赤坂芸者衆、人気のお姐さん。
お召しになったお着物のコーディネートに帯締がもうひとつマッチしない。しっくりこない。

そこで、私ども赤坂吉の家にお電話が入ります。
「グリーン系統の帯締を合わせたいので、何本か○○さん(料亭)に、持ってきてもらえませんか?」と。

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グリーン系・冠(ゆるぎ)の帯締 (一部)

そう承った私ども吉の家では、冠(ゆるぎ)の帯締を20本程ご用意して10分少々でお姐さんがお待ちの料亭へ。
勝手口から控えのお部屋へ.。

「ご免ください。吉の家でございます。」
お持ちした帯締を広げてご覧いただきます。

「どうしよう? これがいい? どうですか? こっち? 」
いろいろと合せていただき、

「これだと色の系統が違うかなー?」 「ちょっと、明るすぎるねぇ。」 「うん、キレイ。これかも。」 「うん、これよ。これ。」 などなど。
ご一緒されているお姐さん方や料亭の女将、皆様と相談されて、

「じゃあ、こちらで。」と。

この日は、さらに、もうひと方のお姐さんからも、「いいわねぇ、私も、これをいただこうかしら。」 と、お声がかかりました。 
最後に、お姐さん方から、「本当に助かりました。ありがとうございます。」 と丁寧なお礼のお言葉をいただき、「即席出張ミニ展示会」は終了。

お電話いただいてから、10分少々でご検討の品そのものをお持ちし、お着物と合わせてみて、数十種類の中からお気に召したモノをお選びいただける。 

このような商い…。
代々続く赤坂吉の家ならではと言えるかもしれません。

ありがとう。助かるわ。さすが吉の家さん。 そんな言葉をたくさんいただける吉の家であり続けたい。 少しずつではありますが前進していきたいと思います。

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吉の家へ入社 自慢の嫁も入社

  • 2016/11/07(月) 17:40:40

吉の家の倅(せがれ)吉野宏康です。

この度、約20年勤めておりました電気メーカーを10月付けで退職して、家業である和装小物 赤坂 吉の家に入社いたしました。 43歳となった今、新入社員、丁稚奉公のスタートです。 あわせて、自慢の嫁 も会社に入りました。 家内は主に1階の資生堂化粧品店 ラクルールの店頭に立つこととなります。 ご報告とご挨拶をさせていただきますので、何卒よろしくお願いいたします。


赤坂をどり店舗



さて、店の方にも出るようになりまして、あらためて、赤坂が好きなんだなぁと再認識をしました。 赤坂にいるとなぜか嬉しい気持ちで、銀座や渋谷、六本木では感じないワクワクした気分になります。 生まれ、育ててもらったホーム赤坂に戻ってこられた喜びということでしょうか。 毎日、嬉しい気持ちで仕事ができることはとても幸せなことです。 これまで畑違いの業界におりましたため、
”和装のいろは” からの勉強が始まりました。 「鯨尺の1寸って何センチ?」、「着物のここが衽(おくみ)で、青海波ってどんな柄」、などなど。 ですが、これが思いの外、楽しく学べています。 小間物屋のDNA、血ということかもしれません。

大学を卒業して就職した際には家業に入るとは思ってもいませんでしたが、いろいろな経緯があり、(追って、ブログにも上げようかと思います…。) こうやって家業に入れることはとてもありがたいことです。 これまで、両親、祖父母、曽祖父母…、ご先祖様(?)が築き上げてきてくれたお蔭であり、赤坂花柳界の皆様をはじめとしたお得意先様、支えてくださる皆様のお蔭と思います。 これからその信頼を守り、伝統に裏打ちされた吉の家らしさを少しでも多くのお客様にお届けできればと思っております。




偉大な二代目(先々代) 祖母 万寿(ます)

  • 2016/01/26(火) 12:47:34

吉の家を大きく発展させた立役者、祖母の万寿(ます)について
昔の雑誌に取り上げられていた記事を元にまとめてみました。

【万寿】写真のみ


初代銀之助は子供がなく、兄の子供、亀之助をもらってそれに嫁をもらった。 この嫁が大変な知恵者で働きもの、吉の家の礎を築いた。 その嫁というのが浅草福井町の下駄の老舗、升屋の娘であった。 その名を富田万寿(ます)という。 万寿は下駄を背負ってほうぼうを売り歩くので『女小僧』のあだ名が付いていた。

その娘が吉の家の二代目亀之助の嫁となった。 舅である銀之助はやかましい人で、誰が嫁に来ても持たないと噂をされていた。 ところが、万寿が来てみると、最初から一度も小言を言ったことがない。 万寿のあまりの働きに感心してしまったからである。

万寿は吉の家に嫁ぐと商家のDNAを発揮、明治45年のことであった。 当時、店のあった銀座8丁目界隈は日吉町といい、芸妓屋が多くあった。 ここで商売をするには町の女性に権力を持っている髪結いに取り入るに限ると考えた。 当時、芸妓衆が詰めかけていた、お千代、お文、お竹といった髪結いに通った。 万寿は下駄屋の出なので、髪結いの家で汚れた下駄をきれいに拭き、破損しているものは次から次へと修理をしていった。 芸妓衆はいつの間にか自分の下駄がきれいになっているので驚くと、髪結いのお千代さんから、「吉の家さんの嫁さんがやったんだよ。 今度、吉の家さんで買ってあげてちょうだい。」と声をかけてくれた。

白粉、紅、花かんざし、籠つき扇子入れなどを商ったが、飛ぶように売れる。 ほうぼうの料亭から万寿に声がかかった。
何でも買ってやるから持って来いと。 料亭の女将も芸妓衆も万寿を可愛がって、買ってくれた。 

新橋の芸妓衆が、大阪や京都に移り、やがて、台湾や朝鮮にも流れて行った。 この人たちが注文して来た。 大正から昭和初期には、吉の家は毎月台湾や朝鮮向けの荷を発送していた。

当時、毎月の丑の日に売り出す紅は縁起がいい、牛紅といわれていた。 万寿は、新橋から築地、さらには、芳町から浅草、辰巳の花柳界までまわって、紅の皿を集めて歩いた。 当時の紅は皿にべっとりつけてあって、その小皿ごと買われていたため、芸妓衆などはそのお皿がたまってしまう。 そこで、芸妓衆のところを回って、皿を集め、きれいに洗い、裏にその家の名前を入れ、牛紅を計り売りしていった。 面白いように売れた。 問屋曰く、東京一の売上だという。

そんな、商売上手の祖母万寿は、銀座の名物おばあちゃんとして、100歳と9か月まで長寿を全うした。

吉の家の女将は代々、働き者で 。
私の母、私の妻、息子の嫁と、歴史は繰り返す。。。

73歳にしてブログを立上げ

  • 2016/01/25(月) 18:59:28

和装小物 赤坂 吉の家の代表 吉野宣宏です。
今年、2016年で74歳をむかえます。

何か新しい取組を始めようと、昨年、私ども赤坂 吉の家のホームページを開設いたしました。
その流れで、この度、本ブログも立上げました。

これから、赤坂 吉の家、こだわりの商品、『赤坂の粋』 を発信していきたいと思っています。
倅(せがれ)にサポートをさせながら、UPしていきたいと思いますので、皆様、お付合いください。